岩原スキー場は米軍に接収されていた?
戦時中でも人気が絶えなかった岩原スキー場
こんにちは。
新潟県湯沢町に移住しました。
今回のテーマは
「岩原スキー場と進駐軍」
です。
前回の記事は
「日本にスキーを伝えたレルヒ陸軍少佐とスキー場の成り立ち」
についての紹介でした。
今回は細かく岩原スキー場の歴史について紹介します。
戦時前の岩原スキー場は日本でも数少ないスキー場だった為、希少価値が高く首都圏からのスキー客で賑わっていました。
そこで岩原スキー倶楽部は石打スキー倶楽部と協力して飯士山越えのツアー・コースを開設しガイドまで行いました。
また宿泊客が仮装したスキーカーニバルも1940年代前後が発祥と言われており現在でも行われています。
※写真は1962年で1940年のスキーカーニバルと異なる。
このように岩原スキー場が力を入れると
東京鉄道局(東鉄)も本腰を入れ始めます。
首都圏からの宣伝を強化し100人収容できる「東鉄山の家」をオープン。
こちらの「東鉄山の家」は岩原スキー場だけでなく湯沢町の土樽、中里地区でも同様の事例がみられました。
そして第二次世界大戦に入るも「スキーは軍事的に必要」との観点から
上野駅から岩原スキー場前駅までのスキー列車(名目上軍事的な訓練であるので国防列車という)を導入します。
国防列車は1942年1月から3月までの土曜日を中心に運行していました。
敗戦後は米軍が所有する?
第二次世界大戦が終了すると岩原スキー場は米軍の保養所として接収されることになります。
日本で米軍に接収されたスキー場は
- 赤倉高原(新潟)
- 志賀高原(長野)
- 藻岩山(北海道)
そして岩原スキー場の4つです。
接収されたスキー場は日本人スキー客は滑れなくなります。
米軍が岩原スキー場を接収してどのように変わったのか簡単にまとめました。
- 名前が「いわはら」から「いわっぱら」に変更
- 岩原スキー場周辺には拳銃を所有してる警備員が多数待機
- 英語の導入
- 雪上車の導入
- ライフラインの強化
大きく分けて5点変わりました。
それでは詳しくみていきましょう。
名前の変更は前回紹介し
「いわはら」と米軍が読むのが難しかったので「いわっぱら」にしました。
そして周辺には拳銃を所持してる警備員いたと聞いています。
時には警備員からお菓子を貰ったり・・・。
当時のスキー場ですが、日本人は滑ることができませんでした。しかし特別に滑ることができたりと親切な姿を感じ取れます。
そして英語の導入。
岩原スキー場内で働いてる方は米軍以外にも地元の方がいました。
彼らは日本語ではなく英語を話していたので地元の方達は自然と英語が話せるようになったのです。
雪上車の導入ですが
今でこそ雪上車は一般的でしたが戦後の日本では普及されていませんでした。
僕の調査によると群馬県草津国際スキー場、長野県の丸池スキー場で初めて雪上車が誕生しました。
そしてライフラインの強化ですが
進駐軍によって電線や県道などの開発が行われたそうです。
僕の聞き取りによると「初めて車を観たのがジープだった」
と話すように戦後貧しかった日本にとってはカルチャーショックを受けたそうです。
またこのジープが旧土樽小学校のグランドや岩原橋などを作ったそうです。
岩原スキー場の歴史を述べるには進駐軍が大きく関わっています。
※因みに進駐軍の写真を探していますが、どなたかご存知の方いらっしゃいましたら連絡下さい。
戦後の岩原スキー場の急成長
米軍の接収により変貌を遂げた岩原スキー場ですが
米軍が引き上げた後の発展は著しいです。
1952年に進駐軍が岩原スキー場と岩原スキーロッジを解除し
1954年には上越線で初の二人乗りリフトが架設されました。
上記の写真は岩原スキーロッジの経営者が架設し「夢のようなリフトだ」と思い
「ロマンスリフト」にしたそうです。
1956年には第3リフトの架設や日本初のナイター営業が行われるようになりました。
しかしながら岩原スキーロッジの経営者は後継者がいなかった為、岩倉氏の日本観光サービスに移行されます。
真冬の岩原スキーロッジ
今度は夏の岩原スキーロッジ
芸能人で賑わう岩原スキー場
岩原スキー場は更に上り調子になります。
富裕層のスキー場と知られた岩原スキー場は石原裕次郎や三木のり平などの芸能人や財界人も好んで滑ったみたいです。