犬ゾリでカナダ大陸5,000kmを突破した男
目次
周左エ門」さんです。皆さんも冒険の世界へ
「伊藤周左エ門」との出会い
こんにちは!
新潟県湯沢町に移住して2ヶ月が経過しました!
早速本題に入りましょう!
今回のテーマは
「犬ゾリでカナダ大陸5,000kmを突破した『伊藤周左エ門』さん」を紹介します!
さてどんな内容になるのでしょうか?
まずはじめに僕と「伊藤周左エ門」さんの出会いを紹介します!
僕は若干の「鉄道」が好きで上越線の臨時列車「NO.DO.KA」が運行する情報を耳にし
清水トンネル付近でスタンバイすることにしました!
清水トンネル付近へのアプローチは2つあり
- 直接車で向かう
- 土樽駅のプラットホーム、土樽山荘経由
この2つです。
僕は後者の「土樽駅のプラットホーム、土樽山荘を通る」手段をとりました!
そこで奇跡が起きたのです!
たまたま土樽山荘の脇を歩いていたら人の足音が・・・。
※土樽駅周辺には4世帯しかなく限界集落と言われています!
気になった僕は早速、話しかけることに!
僕はまだ「伊藤周左エ門さん」が何者か知らない状態でお家に上がることに!
家にお邪魔すると、衝撃的でした!
植村直己の写真とホッキョクグマ
「伊藤周左エ門さん」のお家にお邪魔すると・・・
冒険家「植村直己さん」の写真が置いてありました!
そして更に奥へ進むと動物が・・・。
最初は、この近くで取れた「イタチ」かなと思い
動揺する僕。
後日「伊藤周左エ門さん」を調べると伝説の男でした!
冒険家「伊藤周左エ門」とは
ここからは冒険家「伊藤周左エ門さん」について紹介します!
一体「伊藤周左エ門さん」はどんな人なんでしょう?
下記は様々な資料から抜粋したものです!
冒険家のきっかけは?
1930年(昭和8年)10月20日青森県下北郡大湊町(現在のむつ市)で伊藤家の長男として誕生した。
代々、伊藤家は「周左エ門」を長男家督を継ぐことが決まっていた。
冒険との出会いは小学校の頃。
生家の裏山は霊場として名高い恐山があり祖父と一緒に何度も登った。
その後、中学、高校ではスポーツに熱中し夏は陸上、冬はスキーの選手として、どちらも県大会の上位に食いこめた。
当初から運動神経抜群の持ち主でもあった。
高校の陸上では主に「棒高跳び」を行なっていた。当時の「棒高跳び」はグラスファイバーなどがなく竹で飛んでいた。しかしその竹は下北半島には存在せず八甲田山へ足を伸ばした。
その時、初めて野外キャンプをし冒険に取り憑かれた。
自衛官への道
山に何度も登るうちに自由に空を飛ぶパイロットに憧れた。
高校を卒業した「周左エ門」は海上自衛隊航空特別学生一期生になったものの諦めた。
その直後から昭和44年まで空白の期間が続き、こう語った。
「聞かんで下さい。秘密なんです。山でザイルパートナーを殺したり、いろんなことをしましたよ。一言で示せば放浪です。ですから青森の祖父は僕に変わって弟(三男)に「周左エ門」と名乗らせると宣言しました」
昭和44年、「周左エ門」が独身の36歳の頃、谷川岳の名物「高波吾策」の元へ師事した。
38歳で初の海外はグリーンランド
昭和46年、「周左エ門」が38歳の時グリーンランド島のエスキモー部落で越冬生活を送った。🇬🇱
当時のパスポート。
下記はデンマークのお祭り!
ヤクホサブンの町から40㎞離れた氷原に張ったテントで犬7匹と暮らしていた!
十数万年前の氷を食べた。
犬ゾリの技術を学び、単独で犬ゾリ2,700km踏破(グリーンランド島)を実体験した。
この年「周左エ門」は植村直己と出会った。
犬ゾリの様子
犬もぐっすり寝る。
「周左エ門」曰く「犬の扱い」は難しかったと語った。
そして北極点に到達。
伊藤周左エ門×植村直己
「周左エ門」と植村直己が出会いこのように話した。
「自分より年下だが、山陰の片田舎のわんぱく坊主の風情に一目惚れしました。当時の植村直己さんは5大陸の最高峰を全て登頂しましたが得意げに語らず私の話を聞いてくれました」
「周左エ門」は植村直己に「犬ゾリ操作」を伝えたという。
逆に植村直己から「周左エ門」に伝えたことがあったと言う。
「極寒の地に行くと寒さより凍傷が怖いんです。その対処を教えてくれたのが植村直己さんでした。一番良い方法は、手袋を脱いで、ズボンのベルトを緩めて股間に手を突っ込むのです。両手で自分のフクロを掴むことによって36度の温かみがあります。男には女にはないとっておきの隠れ家があるのですね」
話は外れたが
3年後の昭和49年植村直己が行なった 「北極圏グリーンランド犬ゾリ1万2000㎞の旅」は「周左エ門」との出会いなしにはありえなかったかもしれない!
「周左エ門」も旅に出た!
零下40度の世界へ
昭和47年にモンブランとマッターホルンに登頂し
翌年にはモンテローザに登った!
そして新たな旅として異業種の組織を作った。
和菓子職人、建築会社社長、バニーガールなど13人の冒険隊をメンバーに加え「周左エ門」は隊長となった。
隊長となった「周左エ門」は中古のイギリス製ランドローバー3台を購入しモロッコからケニアまでアフリカ大陸1万7000km横断を試みた!
冒険に不慣れな人ばかりだったが横断は成功に終わった。
しかしながら成功した影には反省点も多くあった。
アフリカの砂漠は氷点下まで下がることは本で知っていたがグリーンランドの氷点下40度を経験していたので問題ないと思っていた。
しかし日中との気温の差が激しく自惚れと自信過剰が苦戦させられた要因でもあった。
昭和50年にはアフリカ大陸の最高峰キリマンジェロ登頂に成功した。
これは42歳の出来事であった。
昭和52年には良子夫人と結婚。
結婚式で植村直己にこのようなスピーチをされたと言う。
「独身生活が長かった「周左エ門さん」ですが、奥さん安心してください。「周左エ門さん」の紹介でエスキモーの世界を旅しましたけど「周左エ門さん」にそっくりの子供はいませんでしたよ。(笑)」
次の旅は北極圏
結婚した「周左エ門」は夫人と土樽山荘を運営し2人の娘にも恵まれた。
しかし「じっとしていると、腰の辺りがムズムズして、3年に1度は大きな冒険がしてみたくなる」
と昭和55年「周左エ門」は新しい旅に挑戦した。
その挑戦こそ
「カナダのバンクーバーから銀世界の太平洋沿岸を車で北上し北極圏を越え、北極海のタクトヤクタックスに至る5681kmの旅」である。
2人の日本人のほか、カナダの北方民俗学者などの5人のチームだ。
「周左エ門」にとっては結婚し子供をもうけた後の初めての危険な挑戦だ。
今回のプロジェクトもトヨタ自動車が賛同してくれた。
「周左エ門」独自の暖の取り方
旅をして9日目は世界最北の高速道があるドーソンシティを通過した。
この時の気温が零下30度に下がった。
10日目。イエローフレーンを出発した日は零下40度の世界となり北極圏に突入した。
同伴しているインド人のベーゼルが車の整備を努めてくれたが、さもなければエンジン停止もしくはヒーターの停止により凍死の可能性もあった。
ベーゼルはこのようなアドバイスを述べた。
「極地で生きるために最も重要なことは、良い眠りを持つことだ」
この言葉を忠実に守り、車中での睡眠が危険な時は無人の小屋を開けてもらい寝た。
しかしそこは零下40度の世界。
そんな時「植村直己」にアドバイスをもらった
「股間で暖を取れ」
との言葉を思い出し危機を何度も抜けた。
13日目、終点のタクトヤクタックスに到着した。
太陽が3つに見える幻日現象を体験しながら旅を終えた。
旅を振り返ると6年前のアフリカ大陸を横断した時、わずか零下2度であったが死ぬほどの寒さであった。
砂漠地帯を完全に甘くみていたのだ。
その経験を生かし重装備で挑み安全に終えた。
これこそ冒険家として大切なことである。
次の旅は女優「和泉雅子」と北極圏720kmの旅
昭和60年北極圏を目指す女優「和泉雅子」に土樽山荘で越冬訓練などを指導し、遠征隊の副隊長に加わった。
この旅は「化学装備とエスキモー古来の伝統的装備でサポートされた旅」だった。
なので「犬ゾリ」ではなく「スノーモービル」である。
この時のテントは故植村直己が常用したものと同じピラミット型で氷点下50度でも30秒で建てられるようにできている。
ウエアの一番外側はトナカイの毛皮の上下である。それにトナカイの靴、オーバーシューズ。エスキモー古来の衣服だった。
植村や「周左エ門」が多くの体験から、移動するのはトナカイのものが保温性が高いと決断を下したからだ。
この旅は総額1億2000万円掛かった。隊長の「和泉雅子」は男だけの集団をまとめ上げ北極点アタックは日本人初めての冒険だった。
そして62日間掛け冒険は終了した!
旅を終えた「周左エ門」と「和泉雅子」
北極圏を制覇した盾
隊員から「周左エ門」へ
今回の旅は副隊長「周左エ門」のサポートにより成功したものだ。
こう語るのは、とある隊員だ。
「周左エ門」の冒険家としての歴史は、さほど輝かしいものではない。それは、彼にとっての冒険が、名誉や金、地位を求めるためのものではなく、彼なりの夢の可能性を試すものだったからにほかなるまい。
冒険を”死を賭けるもの”と定義することがよくある。
「周左エ門」の場合はこれとは異なる。安全に帰還することに全力を尽くす。(彼は冒険を子供に教えるための”冒険学校”を谷川岳の麓”土樽山荘”で開講している。)
植村直己の死について
「周左エ門」は植村の死について、このように考えている。
植村の冒険は名誉への旅だった。彼の行うことの全てが、日本ばかりではなく世界から注目された。その実績によって、世界に名高い冒険家としての”地位”も得た。でも「周左エ門」は違う。
「これから何やろうか、と彼がエスカレートするばかりの自分を、いつも追いつめる一生じゃなかったかなと思うんです。だから直己は、あの日、動けなくなった状態のまま「公子」(植村直己の妻)、オレもうこのまま眠るよ。動くの面倒くさいよ、と消極的な自殺をする想いになったのじゃないかなと考えるのです。もし彼に子供がいたら、あんなことにならなかったんじゃないかなと思ったりして・・・」
「周左エ門」は植村峰に登る
「周左エ門」らは多くの冒険仲間たちと一緒に植村公子さんを囲んで語り合う。
少し酒を含んだ公子さんは小さな声で行った。
「周左エ門さん?私、植村さんといい仲だったわよね?」
黙って頷く「周左エ門」
「私ね、もし世界のどこかに植村の落とし子が生きてるとしたら、引き取りたいと思ってるの」
残した妻にそう言わせる男を「周左エ門」はこの上ない果報者だと思う。同時に帰ってこなかったことを憎む思いもある。
そして昭和61年「周左エ門」はグリーンランドの植村峰(デンマーク政府が名付けた)に登った。
植村峰を制覇した盾
作家「沢木耕太郎」も愛した土樽山荘
いかがでしたか?
「伊藤周左エ門さん」は数々の快挙を残してきた冒険家です。
しかしながら「グーグル」で「伊藤周左エ門」と検索してもあまり出てきませんでした!
また湯沢在住の若い世代に「周左エ門」さんのことを話しても伝わらず・・・
なら僕が取材してブログに残そうと思い何度も「周左エ門」さんのもとに足を運びました!
時には大雪で長くつがビショビショになることもありました。
それでも「周左エ門」さんと話していると面白く時間を忘れ、何時間も「土樽山荘」にお邪魔してました!
今回の記事は「周左エ門」さんにお願いして、新聞記事、雑誌、ご本人が撮影した写真を提供してもらいました。
こちらの記事に登場する写真はもう世に出ることがない貴重な写真です!
取材の中で驚いたなが
「土樽ユースホステル」は「周左エ門」さんが経営していたことを初めて知りました!
僕自身「谷川ラズベリーユースホステル」や「釧路塘路ユースホステル」など「ユースホステル」が好きだったので驚きと嬉しさが混じった瞬間でもありました。
また写真を弄っていると
誰だかわかりましたか?
そう
「深夜特急」の作家
「沢木耕太郎」さんです!
![]() |
深夜特急(1) 香港・マカオ (新潮文庫) [ 沢木耕太郎 ] 価格:529円 |
僕は「深夜特急」を読んでバックパッカーをしたので
旅人にとっては憧れの作家です!
しかし「土樽山荘」は現在、休止中です。
というか廃止なのでしょうか?
「周左エ門」さんは現在87歳。
復活するのは難しそうです!
ただもう一度、1日だけでも「土樽山荘」を復活させたいですね!
最後に「周左エ門」さんありがとうございました!
身体には気をつけて冒険の話を聞かせてください!
素晴らしい記事をありがとうございます。地元に根差した唯一無二の情報ですね。
学生時代に土樽山荘、土樽スキー場で合宿をしていました。
一日中滑って、夜は植村さんの話しや冒険の面白い話しを
遅くまで伊藤さんが語ってくれた記憶があります。
もう40年以上前なんですね。。
伊藤さんがまだお元気なようで、嬉しく思ってます。
土樽山荘。。復活したいですね。(#^^#)
コメントありがとうございます。
記事は去年ですが伊藤さんは元気にしていますよ。
ぜひ土樽山荘復活してもらいたいんですがね・・・。
1日限りでもイベントができたらと考えていますが!
伊藤さんは私に親友です。伊藤さんと高波吾作さんに弟子入りし旧山荘の北部屋で一緒に過ごしました。拙著「冒険に生きる」の中で伊藤さん、植村さん、和泉さんのことをかいています。その後伊藤さんとは違う道を歩みました。土樽のスキーレッスンの写真など懐かしいかぎりです。写真家、作家
伊藤さんとお話してると長さまの話題になります。「冒険に生きる」読ませて頂きます。旧山荘で過ごされていたのですね。たまに街中で伊藤さんにお会いします。ご高齢で心配ですが車も運転されています。土樽スキーのレッスン写真は伊藤さんから見させていただいたものです。
以前土樽山荘で住み込みバイトをしていました
懐かしい思い出の土地です
今でも関越で土樽付近を通るときは思い出します
土樽山荘でアルバイトされていたのですね。
その時の様子気になります。
今はスキー場も廃止され列車もごく僅かですが大自然が残っていますね。
懐かしいです、とても。
私、現在66歳。約40年程前1泊泊まりました。その日は私一人だけの宿泊だったので
奥様と幼い娘さんもご一緒にご家庭の
お部屋で夕飯を頂きました。裏の山から
採ってきたんだよ、と山菜料理と
カボチャの煮物をご馳走になりました。
植村さんのお話などをしてくださりまし
た。若かったわたしはなかなか会話ができなくて今思い出すと残念です。
翌朝六日町に行く私を雨だからと
自分で運転して車で送ってくださいました。素晴らしい思い出です。
お元気そうでうれしいです。
また、このブログを発見出来てよかったです。長くなりました。
コメントありがとうございます。
そのように言っていただき大変嬉しいです。
伊藤さんの優しさなどが文書で伝わってきます。
また何かありましたら投稿させてもらいます。